美しい、私の宝物の友達が、スポットライトに照らされながら物語を生きている姿を私は生涯忘れない。
私の友達に、演劇部に入っている子がいる。
その子は聡明で賢く、優しく、Loveの熱さも危うさも悲しみも喜びも知っている。豊かな心の持ち主だ。
だからその子が『劇に出るから是非来て欲しい』と誘ってくれた時は二つ返事で観に行くと言った。
今から3年前、大学3年生の6月である。
白状すると、私はその友達が(友達として)好きですきでたまらなかったから見に行ったのであり、当時は演劇に対する特別な興味は然程なかった。
共通の友達と連れ立って、ワイワイと席に着いたのを今でも覚えている。
確か季節柄、今年食べたいかき氷の話なんかをしていた。
開始のアナウンスが流れ、友人達と互いに唇に人差し指を押し合っていると幕が上がり、スポットライトが壇上を照らした。
その瞬間、友達は光の中にいた。そしてその友達は、私の知っている友達ではなかった。
彼女は魔女。心優しい魔女として、そこに立っていた。
演目は、人魚姫。
アンデルセンの人魚姫をアレンジした演劇だった。
物語は終始、少女としての葛藤に包まれており、私はそれを女子大生の彼女達にしか演じることが許されていない聖域に思え震えた。
私は何を視ただろう。
大好きな友達?友達だった魔女?他の演者?ストーリー?小道具?
全部?
わからない。
ただ、心の中にある、自覚のない、インクルージョンだらけの鉱石の様な感情がコロリと動いたのは確かである。
私にとって初めての、刺激的な体験だった。
その数ヶ月後の秋の終わり、また彼女が舞台で演じるというので私は絶対に行くと叫んだ。
嬉しくて走り出したい様な気持ち。
また友達が友達でなくなるところを覧られる。そして、あわよくば、女子大生しか演じられない“ソレ”を観たい。そんな気持ちが止まらなかった。
皆と都合が合わず、この演劇は一人で行った。
確か一人、席に着いて一つ小さな咳払いをして見る者としての軽い緊張を払った気がする。
演目は、女生徒。
太宰治の女生徒をモチーフにした劇。
私は終盤、涙が溢れて止まらなかった。
少女と女性の間の胡乱な時を生きる女子大生が、十代の少女が持つ不安定な怒りや哀しみ、強さと儚さのパラドクスを演じるその光景は、かつて私も正規品の少女として生きていた事を思い出させてくれた。
私は、何をミただろう。
昔の自分?今の自分?意地悪で自己中で、でも優しくて美しくて醜い、大人を厭がる女生徒達?
演劇後、女生徒の変身が解け友達に戻った彼女を抱きしめながらポツポツとまとまりに欠けた拙い感想を言った記憶がある。
そんな私に、笑顔を返す彼女はやはり美しかった。
月日が経ち、私はOLになり、大人の汚い洗礼に心を殺され、不幸な不労所得者としてそれなりに楽しく生きている。
そして友達は演劇を続けている。
彼女は大学4年時に当たる期間に留学に行っていた為、まだ大学生なのだ。
個人的に、こんな嬉しい事はない。
女子大生。ブランド化やラベリングなどをされがちだが、そんな簡単な形式では収まりきらないほど、多感で繊細で愚かで美しい生き物である。
そんな女子大生として生きる友達が、また演劇に誘ってくれた。
今度は何をみせてくれるのだろう。
私はそこで、何をみるのだろう。
あなたもみてみたらどうか?
大事な美しい友達。
本当なら大切に宝飾品と一緒にボックスに閉じ込めてサテンのリボンで飾り付けたい。
そんな彼女を女子大という結界の中で特別にみられるまたと無いチャンスだ。
見るも観るも視る覧るもあなた次第。
私?私はもちろんみにいく。
友達と、友達の演じる誰かを診る私を看に行く。