【出来事】OL旅行記

OLが行く!湯けむり慰安バスツアー!


品に欠ける電車の中吊り広告の様な出だしになってしまったが、文字通り、この土日は会社の仲良しの同期と温泉バスツアーに行って来た。


私は、旅行はどこに行くかという事よりも誰と行くかが重要だという考えのため、行き先は友人に任せ、ギリギリまでどこの温泉に行くかチェックしておらず3日前あたりにようやく栃木の日光・鬼怒川温泉に行く事を知った。

 

どこの温泉に行くのかと親に聞かれ「きどがわ温泉」と返し怒られたのは内緒だ。


幼い頃から重度の花粉症のため、日光の杉山を恐れ、アナフィラキシー覚悟で臨んだ旅行だったが、万全を期したからか然程影響はなかった(友人は一度瀕死になった)。




余談だが。


花粉症の薬は大きく分けて2種類ある。抗アレルギー薬と抗ヒスタミン薬だ。


前者の薬は病院でしか貰うことが出来ない。手間だが、抗アレルギー薬は花粉飛散の1ヶ月程前から飲む事で大きな効果を得る事ができ、且つ保健が効くので非常におすすめだ。

手軽にドラッグストアなどで手に入る後者の抗ヒスタミン薬だが、副作用として眠気と喉の乾きがあり、また飛散量の多い地域に行くと症状を抑えきれなくなる為注意が必要となる。




突然語りだして申し訳ない。花粉症についてアウトプットする機会に中々恵まれない為ついこの場を借りてしまった。


話を戻すが、栃木は東京に比べるとまだ寒いが、春の訪れはそこかしこに現れていた。


都会ではあまり見かけないつくしが生えているのを見つけた時は結構興奮したが、皆はあまり興味無いだろうと思い、ひとり万年筆のようなフォルムをまじまじと観察したりした。


ツアーの為、日光東照宮やスイーツ食べ放題店、おかき工房など、色々な場所をバスで巡っていった後(イタリアのパックツアーを思い出した)、宿泊する温泉旅館で降ろしてもらった。




温泉は、良い。




人によってはデカイ湯船くらいの認識かもしれないが、プラシーボ効果を差し引いたとしてもやはり疲れが溶け出して行く様な気がしてならない。


うぅ、だとか、あぁ、だとか言いながら熱い湯に浸かり、頭にタオルを乗せサイコーだねと顔を見合わせた瞬間、OLになった事を実感する。


大人になれた。なってしまった。


 


早めの夕食を済ませ二度目の入浴を済ませた後、部屋へ戻ると布団が敷かれていた。上げ膳下げ膳至れり尽くせり、旅館の醍醐味である。


布団を見た瞬間、電気も付けずに自己主張の激しい性格の人から順に(私は2番目だった)目ざとく各々気に入った布団へダイブしたが、それでは不公平だという事になり結局ジャンケンで場所を決めた。


そこでとりとめのない話をぽつぽつとした。

具体的に何を話したか、もう思い出せない程なんて事のない会話だったのだが、その時間が一番フラットな自分で居る事ができた気がする。


ふと、スマホに着信が入っている事に気付く。折り返すと、母からの祖父が倒れたとの連絡だった。

祖母が亡くなり早8年、やや不謹慎だが、祖父もよく生きてきたよな。と思いながら翌日早朝東京に向かう事を約束し切電。


皆にその旨を伝えると、私以上に祖父を心配をしてくれ、先に帰る身勝手さを責められる事はなかった。


その後、畳の上で円になり座っていた事や部屋の雰囲気も相まって、段々レクレーション的なゲームをしたくなり、急遽人狼の親戚の様なゲームのアプリを入れ(こういう時にスマホの便利さに改めて気付かされる)深夜1時までゲームで盛り上がり、その後誰ともなく布団へ滑り込み電池が切れた様に眠りについた。




仕事の夢を見た。

もう詳しくは思い出せないが、私は仕事に必要な承認を貰おうとするのだが誰も応えてくれずフロアをウロウロしていた。すごく心細かったのは鮮明に覚えている。


困り果てた時、デスクの上の私の携帯が震えた。昔使っていたピンクのガラケーからperfumeのlovefoolが流れる。なんの違和感も躊躇もなく(夢の中だから)出ると、同期の友人からだった。


「どうしたの?」


あのね、と言い出した瞬間、誰かのアラーム音で目が覚めた。


ぼんやりとした意識の中「後5分寝ます......」と言ってもう一度目を瞑る。


結局15分追加で眠った。




朝食と身支度を済ませ、バスツアーの続きに向かう同期と旅館の入り口で別れる。


「次会うときは2年目だ。」


内定者時代に出会い、辛酸を共にした皆と共に新人を終える事に喜びと一抹の寂しさを覚えながら手を振った。




乗車券と特急券の認識がごっちゃになりながらもどうにか切符を買い、一人スペーシアに乗り込みイヤホンを耳にはめる。


東京に居る時はハイテンポなシティポップを好んでいるが、こういう時に聞く音楽はスローテンポな昔のヒット曲に限る。


車窓からは山や田畑、民家。ぽつぽつと梅も見える。なんと穏やかな春の風景だろう。

いっそCarpentersのTop of the worldくらいカントリーな曲でもいいかもしれない。


車内販売で買った220円のアイスコーヒーのプラスチックカップと窓ごしに流れる景色をぼんやりと眺める。


春の陽気で生まれた氷まわりの結露がキラキラと外の菜の花畑を反射している。


ふと夢に出てきたガラケーと同じ様な色の車が目に入った。

珍しい色だと思いよく見てみると、運転席からチラリと女性の和服の袖が見えた。


それだけの事なのだが、胸がグッと熱くなる。

自分とは全く異なる他者の営みを垣間見るというのも、旅行の良さの一つなのかもしれない。


祖父は今どうしてるだろうか。

悠長にまばたきをしながら、春の日差しに照らされた病院の白い壁を思い浮かべていると、次は北千住とのアナウンスが流れ出した。

なぁ、スタバって本当に居心地良いか?

はじめに言っておく。

私はスタバが大好きだ。フラペチーノが好きだ。ラテが好きだ。店員の笑顔が好きだ。

 

だが、あえて一つ皆に問いたい。

 

 

 

スタバ、店内微妙じゃない???

 

 

 

なんで?なんであんなスタッフの教育が行き届いてるのに?豆もこだわってるのに?店内はマジ微妙じゃない?テイクアウトを前提としてるの?店内はオマケなの?

 

という事で今回はスタバの店内がどう微妙でどうなって欲しいのかについて書いていきたい。

 

 

【問題⒈椅子の格差】

 

スタバに行った事のある人ならわかると思うがスタバの椅子、バラツキがありすぎ

 

一つの店内で、あらゆる椅子があるため座り心地の当たり外れが酷い。

ここでは黒田の独断と偏見と経験に基づいた椅子の紹介をしていく。

 

 

 

エントリーナンバー⒈ ソファー型の椅子

居心地の良さ★★★★

 

スタバ界でも群を抜いて座り心地の良いソファー。デザイン性も高く、肘掛けもついておりくつろげる事間違いなしの椅子である。時々寝てる人もいる。

 

しかし素晴らしいソファーであるにも関わらず、五つ星ではない。その理由は後述する。

 

 

エントリーナンバー⒉ バーみたいな椅子

居心地の良さ★★

 

微妙。微妙of微妙。黒田の様に身長に恵まれなかった人間はちょっと『えいっ』と勢いをつけて座らねばならない。また硬い材質で出来ている事が多くケツへ負荷がかかる。

 

この手の椅子は店の端や窓際に設置されているケースが殆どのため、夏は日が眩しく冬は寒い事が多い。

 

 

エントリーナンバー⒊ 学校にありそうな椅子

居心地の良さ★★★

 

『戦前の教室かな?』と勘違いしてしまいそうになる、デザイン性を殺された木製の椅子。

 

f:id:nanami12392985:20180110124639j:plain

 

f:id:nanami12392985:20180110130732j:plain

 

座り心地は学校の椅子と見紛うだけあって普通。床に足が着くからか、ケツへの負担もそれほど酷くはない。

 

この椅子がスタバの店内の6〜7割を占めている。

 

 

エントリーナンバー⒋ 木こりの椅子

居心地の良さ★

 

『木こりが一服する時に座る椅子かな?』と思ったらここは都会のスタバでした......

でお馴染みの木製の背もたれの無い丸椅子。店長お前絶対適当に置いただろ!としか思えない。

 

椅子自体の背が低いためこの椅子に座るとあしたのジョーのラストシーンみたいな感じになる。

 

f:id:nanami12392985:20180110124745j:plain

 

 

エントリーナンバー5.ソファー席

居心地の良さ★★★

 

ソファー型の椅子ではなく、壁際のソファー席を指す。特筆してコメントする事はない。普通のソファー。

強いて言うなら仕切りが無い為隣の人の荷物が侵食してきたりするが、まぁそれは椅子の落ち度ではない。

 

 

 

ざっとこんなもんだろうか。これ以外にも店舗によって洒落臭い椅子は幾つかあるが、メインの椅子はこんなところである。

 

椅子の格差社会が激しいスタバ。世相を映しているのだとしたら天晴れである。

 

 

 

【問題2.机の種類】

 

スタバは罪作りなカフェで、椅子もバラバラなら机もバラバラなのである。

と、いうことで机も紹介していく。

 

 

エントリーナンバー⒈木こりの椅子みたいな机

居心地の良さ★

 

木こりの椅子かと思ったら机だったー!......でお馴染みのこの机。机?いや机としての機能はあまり果たせていない様に思う。

 

f:id:nanami12392985:20180110124850j:plain

 

マグカップ2つ置いたら「ハイッ!終わり」である。他のもの置く余地なし。MacBookですら立往生してしまう。

 

しかもこの机、タチの悪いことに何故か「ソファー型の椅子」や「ソファー席」とセットにされている事が多いのである。上記の「ソファー型の椅子」で星の減点があったのはこのためである。

 

その為せっかくフカフカの背もたれがあるにも関わらず、やっぱり矢吹ジョーの様に前のめりにしてコーヒーを飲んでいる人を私は何度も目にして来た。いやホンマ何がしたいねんスターバックス

 

 

エントリーナンバー⒉カウンター

居心地の良さ★

 

机、というかカウンターである。この机は「バーみたいな椅子」とセットになっている事が殆どである。

 

カウンター自体を否定する気はないが、問題は景色である。スタバでカウンターというと大体窓際なのだが、景色が微妙な事が多い。

 

特にメトロ内にあるスタバのカウンターとなると、もう薄暗い駅内を歩く人とバカデカイ石原さとみのポスターしか見るものがなかったりする。

 

 

エントリーナンバー⒊丸机

居心地の良さ★★★

 

特筆していう事のない、普通の机であり、まれに市松模様の物もある。大体において「学校にありそうな椅子」とセットにされている。

 

f:id:nanami12392985:20180110125034j:plain

 

しかし四角でなく丸であるが故に、机と椅子をくっ付けて4人席にしようとすると微妙な隙間が生まれてしまうのが欠点である。

 

 

エントリーナンバー⒋馬鹿でかい机

居心地の良さ★★

相席を前提とした机である。この机も大体において「学校にありそうな椅子」とセットにされている。

 

f:id:nanami12392985:20180110125059j:plain

 

私はこの机をApple社から提供された机なのではないかと睨んでいる。

「時計回りで、お前はiPhone、お前はMac、お前はiPhone、お前はMacBook、お前はなんだそれはMacBook Proか、んでその隣のお前は?MacBook Air......ほーん......」

 

 

ここはApple Storeか!!!!!!!!

 

 

どうして「この馬鹿でかい机」で相席をする人々はApple製品ばかり持っているのだろう。特に丸の内、表参道、六本木辺りで顕著なのだがこれは何故なのだろう。教えて!偉い人!

 

 

エントリーナンバー5.ダイニングテーブル

居心地?????

 

「カフェのテーブルの話してるんだからダイニングじゃねーだろ」とお思いの皆さん。まずはこれをご覧ください。

 

f:id:nanami12392985:20180110125150j:plain

 

デカめのダイニングテーブルだろ、これ。

 

白状すると私はこの机を利用した事がない。何故ならここでの相席は気まずいからだ。

 

隣との間隔は「馬鹿でかい机」よりも狭く顔をあげるとまあまあな近さに知らない誰かがいる。いや、ダメじゃないけどさ。普通に気まずいっす。

 

時々大学生らしき集団がこの机でディベートやプレゼンの準備をしている。確かに、そういう人々にとってはうってつけの机だろう。

 

だけど頼む、そういうのは大学でやってくれ。

 

 

 

【問題3.客】 

 

これは本当に難しくセンシティブな問題なのだが、アルファブロガーでもないしあえてハッキリ言ってしまおう。

 

「ここは自習室じゃねーんだよ!!!!!」

「仕事場でもねーんだよ!!!!!」

「カフェを楽しみたい人が来るべき場所なんだよ!!!!!」

 

......声を荒らげてしまって申し訳ない。

 

けれどスタバにいる客で、冷めきったコーヒーを邪魔そうにしながら勉強や何かしらの作業をしている人が長居をしているのを見ると、タイキックをキめたくなるのは私だけだろうか?

 

ルノアールの様に、ハッキリとビジネスの利用を意識した店ならいいが、スタバはコーヒー店でありカフェを楽しむ場所である。

 

フラペチーノを楽しみながらおしゃべりに興じるも良し。ラテを飲みながら団欒するも良し。PCを開いたって本を読んだっていい。

 

だがそこにはコーヒー(またはティーやその他の軽食)が存在感をもってあるべきなのだ。

 

場所代のためにしぶしぶコーヒーを買っている奴。気持ちはわかる。おそらく家だと捗らないダメ人間なのだろう。

しかしスタバを作業場とするのは、多目的トイレで乳繰り合うクソカップルと同レベルである事を忘れるなよ......

 

 

 

 

◇まとめ◇

 

真面目な話をするならば、椅子と机のバラツキが此処まで顕著なのは居心地のいい空間作りとして致命的欠点であると私は思う。

 

スタバ側としては、お客様のスタイルに合わせて椅子もセレクト出来る様に......などと考えてくれているのかもしれないが、正味な話スタバに行って椅子を選ぶ余裕があった試しがない。

 

ガラガラのスタバなど、全員出席の大学講義くらいありえない。

 

下手な例えが間に挟まってしまったが、何が言いたいのかというと、椅子にバラツキがあり、かつ店内が混んでいるという状況では席と顧客のミスマッチが多々起こるのである。

 

コーヒーをサッと飲んで帰りたい人がフカフカのソファー型の椅子に座り、PCでメールをチェックしたい人が木こりの椅子みたいな机でMacを開き、込み入った話をしたいカップルが木こりの椅子に座り、ゆっくりブレイクタイムを過ごしたい人がバーみたいな椅子に座り、学校帰りのJKやJDが丸机を一生懸命くっ付け話す......

 

 

 

 

くつろげるか!!!!!!

 

 

 

いや最後のJKJDはまだいいとして、その他の人がかわいそう過ぎるだろ!!!

居心地の良さでいったらOIOIエスカレーター脇に置かれたソファーの方が勝るかもしれない。

 

こうしたミスマッチが起こるのは、やはり回転率の悪さである。

 

コーヒーをゆっくり楽しみたい気持ちはわかるが、先ほども書いた様に、コーヒーそっちのけで他の作業に取り組んでいる人があまりにも多過ぎる気がする。

 

しかしそうした人々の気持ちはわからないでもない。凡人故に家だと捗らないのだ。

 

だからこそ、何かスタバらしいオシャレでユニークなルールを作るべきであると思う。

 

プレゼンで利用した人は、プレゼン後その内容をスタバで公開するだとか、勉強で利用し合格した受験生はその旨を店側に伝え、縁起のいい店だとSNSで拡散するだとか、

 

もう何でもいい。なんでもいいから、満席のスタバをジプシーの様にハシゴしたり、ようやくたどり着いたスタバの席でエヴァンゲリオン碇ゲンドウの様なポーズで友達と会話するのはもうこりごりなのだ。

 

 

 

◇最後に◇

 

「散々けなしたお前の理想の店内はどんなんなんだよ!」

と思われそうなのでここで発表する。

 

理想の店内は

 

マクドナルドである!!!!!!!

 

f:id:nanami12392985:20180110125442j:plain 

f:id:nanami12392985:20180110125527j:plain

 

画一化された席に、適度な賑やかさ。回転率もよく、謎のババアがハッピーセットを食べている隣で男子高校生がナゲットを食べながら遊戯王をするというカオスな世界観。気張らなくて良い価格帯に雰囲気、わかりやすいサイズ表記に慣れ親しんだ味。最高である。

 

 

 

まぁ、それでもスタバに行っちゃうんですけどね〜

 

1月10日の今日はスタバの新作

「ピンクメドレーティーラテ」の発売日!

 

f:id:nanami12392985:20180110125546p:plain

http://www.starbucks.co.jp/beverage/tea/4524785343979/?tag=new&utm_source=yahoo&utm_medium=carousel_20180110&utm_campaign=4524785343979

 

パンダの赤ちゃんみたいなピンク色の、名前からは味が検討つかないティーラテだが、すごく飲みたい!!!

 

誰か私と行ってやってください。

 

【思った事】演劇で何を見る?観る?視る?覧る?

美しい、私の宝物の友達が、スポットライトに照らされながら物語を生きている姿を私は生涯忘れない。

 

 

 

 

 

 

私の友達に、演劇部に入っている子がいる。

 

その子は聡明で賢く、優しく、Loveの熱さも危うさも悲しみも喜びも知っている。豊かな心の持ち主だ。

 

だからその子が『劇に出るから是非来て欲しい』と誘ってくれた時は二つ返事で観に行くと言った。

 

 

 

今から3年前、大学3年生の6月である。

  

 

 

白状すると、私はその友達が(友達として)好きですきでたまらなかったから見に行ったのであり、当時は演劇に対する特別な興味は然程なかった。

 

共通の友達と連れ立って、ワイワイと席に着いたのを今でも覚えている。

確か季節柄、今年食べたいかき氷の話なんかをしていた。

 

開始のアナウンスが流れ、友人達と互いに唇に人差し指を押し合っていると幕が上がり、スポットライトが壇上を照らした。 

 

 

その瞬間、友達は光の中にいた。そしてその友達は、私の知っている友達ではなかった。

 

彼女は魔女。心優しい魔女として、そこに立っていた。

 

 

 

演目は、人魚姫。

 

 

 

アンデルセンの人魚姫をアレンジした演劇だった。

 

物語は終始、少女としての葛藤に包まれており、私はそれを女子大生の彼女達にしか演じることが許されていない聖域に思え震えた。

 

私は何を視ただろう。

 

大好きな友達?友達だった魔女?他の演者?ストーリー?小道具?

 

全部?

 

わからない。

ただ、心の中にある、自覚のない、インクルージョンだらけの鉱石の様な感情がコロリと動いたのは確かである。

 

私にとって初めての、刺激的な体験だった。

 

 

 

 

 

その数ヶ月後の秋の終わり、また彼女が舞台で演じるというので私は絶対に行くと叫んだ。

 

嬉しくて走り出したい様な気持ち。

また友達が友達でなくなるところを覧られる。そして、あわよくば、女子大生しか演じられない“ソレ”を観たい。そんな気持ちが止まらなかった。

 

皆と都合が合わず、この演劇は一人で行った。

 

確か一人、席に着いて一つ小さな咳払いをして見る者としての軽い緊張を払った気がする。

 

 

 

演目は、女生徒。

 

 

 

太宰治の女生徒をモチーフにした劇。

 

私は終盤、涙が溢れて止まらなかった。

少女と女性の間の胡乱な時を生きる女子大生が、十代の少女が持つ不安定な怒りや哀しみ、強さと儚さのパラドクスを演じるその光景は、かつて私も正規品の少女として生きていた事を思い出させてくれた。

 

私は、何をミただろう。

 

昔の自分?今の自分?意地悪で自己中で、でも優しくて美しくて醜い、大人を厭がる女生徒達?

 

 

 

演劇後、女生徒の変身が解け友達に戻った彼女を抱きしめながらポツポツとまとまりに欠けた拙い感想を言った記憶がある。

 

そんな私に、笑顔を返す彼女はやはり美しかった。

 

 

 

 

 

月日が経ち、私はOLになり、大人の汚い洗礼に心を殺され、不幸な不労所得者としてそれなりに楽しく生きている。

 

そして友達は演劇を続けている。

 

彼女は大学4年時に当たる期間に留学に行っていた為、まだ大学生なのだ。

 

個人的に、こんな嬉しい事はない。

 

女子大生。ブランド化やラベリングなどをされがちだが、そんな簡単な形式では収まりきらないほど、多感で繊細で愚かで美しい生き物である。

 

 

 

そんな女子大生として生きる友達が、また演劇に誘ってくれた。

 

 

 

今度は何をみせてくれるのだろう。

私はそこで、何をみるのだろう。

 

 

 

あなたもみてみたらどうか?

 

 

 

大事な美しい友達。

本当なら大切に宝飾品と一緒にボックスに閉じ込めてサテンのリボンで飾り付けたい。

 

そんな彼女を女子大という結界の中で特別にみられるまたと無いチャンスだ。

 

見るも観るも視る覧るもあなた次第。

 

 

 

 

私?私はもちろんみにいく。

 

友達と、友達の演じる誰かを診る私を看に行く。

韓国でコルギを受けた話

唐突だが、みんなは韓国に行ったことはあるだろうか?

 

私はある。卒業旅行と題し韓国へ地元の友人と行った時の話だ。

 

 

 

友人1  M

葛飾区在住の心優しいキチ◯イ。特に韓国が好きとかではなく、私と友人2Aが好きなためついてきた奴。悟りを開いていて基本欲が無く旅行中も「なんでもいい」としか言わない。

 

 

友人2  A

生粋の足立区民。常識的なキ◯ガイ。韓国が好きと言うよりも美容と思い出作りのために今回の旅行を企画した。

 

私 黒田なな

荒川越えたらスラム街でお馴染みの足立区に住む文化人。

“キチガ◯と海外旅行に行くとどうなるのか”という知的好奇心と“パスポートの余白を埋めたい”という理由でこの旅行に参加した。

 

 

 

このメンバーで韓国に行き、楽しい時間を過ごしたのだが、唯一許すことの出来ない出来事があった。

 

 

 

コルギである

 

 

 

【コルギとは?】

コルギ(骨気)とは、美容大国韓国で生まれた民間療法。 通常のマッサージと異なり、骨を圧を加えて皮膚と骨の間にある血管やリンパ管を刺激して血流をアップさせる施術の事である。

 

 

 

スラム街で暮していても一応華の女子大生。美容への興味は尽きない。

 

「なんだかよくわからんがすごそうだからやろうぜ!せっかくだし!」

 

という非常に軽いノリで我々はコルギに挑んだのだ。

 

 

 

それが間違いとも知らずに。

 

 

 

コルギの予約を取った後、我々は施術までの時間にお粥を食べに行った。

 

 

韓国のお粥は、美味しい。マジ美味い。

 

 

私はアワビ粥を注文したのだが、優しく温かく海の旨味が広がるその旨さにひたすら感動した。

甘みと磯の香り引き立つまろやかな美味しさにホゥ、とため息をつきながら顔を上げると友人MとAは疎開先で久々に米を口にした戦中の子供の様にひたすら粥を貪り食っていた。ウケる。

 

 

そんなこんなで素敵なお粥を満喫しお会計をしていた際、日本語が上手な店長さんが気さくに話しかけてきてくれた。

 

「コのアト、ドコいくノー?」

 

この何気ない質問に、

「コルギいくんですよ〜」

と答えたところ、優しい表情だった店長さんの顔が見る見る険しいものになった。

 

『私が無知なだけで“コルギ”って差別的意味合いあったっけ???うっかり地雷を踏み抜いた???』

 

と私がアワアワしていると、店長さんが一言。

 

「コルギ、それは恐ろしい身技。」

 

と信じられないくらい流暢な日本語で語り出した。

 

なんでもコルギは物凄く痛いらしく、観光客が泣いたり痣が出来たりして韓国でも問題になっているらしい。

 

「韓国人は絶対にコルギやらない。行かない方が良いよ、マジ。」

 

と流暢に、語尾に“マジ”まで付けてギャルの様に諭してきた店長さんの気迫に私は固まってしまったのだが、後ろで聞いてた友人Mが

 

「おもしろそーじゃん?」

 

と言い放った。

 

『なんだコイツ、逆境に強気とかジャンプの主人公かよ。』

と思いつつも、私も逆に気になってしまい、ビジネスカタコトをやめてまで忠告してくれた店長さんには些か申し訳ないがコルギを中止しない事が決定した。

 

 

 

我々が向かったコルギ屋さんは日本語にも対応しているとても雰囲気の良いお店で、待合室の椅子で猫が昼寝をしているというなんとも和やかな場所であった。

 

すっかり気を緩めた私は『店長さんが言ってたのは悪徳コルギ屋の事で、ここは大丈夫だろう』と安心し、意気揚々とコルギのコースを決めていった。

 

 

 

コルギは、安くない。

 

 

 

フルコースを頼んだらなんだかんだで1万円位になってしまったが、顔が小さくなるなら安いもんである。

 

エラを1ミリでも細くしたい私はなんの迷いもなく一万円分のウォンを出し、フィッティングルームでウンコ色の施術着に着替えてスタンバイをした。

 

 

 

仰向けになって寝ていると

「準備ダイジョウブカー?」

とタメ語が聞こえて来た。

 

こちらが答えるよりも早くカーテンが開くと、そこには温厚そうな顔のおばあちゃんに“グラッパ刃牙”の腕が付いた生き物が立っていた。

 

f:id:nanami12392985:20180107023804p:plain

 

 

 

 

?????

 

 

仰向けのまま、横目でよく見てみると、おばあちゃんの腕がムッキムキなのである。

 

肘から下は普通の腕なのだが、二の腕が信じられないほど鍛えられていた。

 

何かアカン系のプロテインを主食にしてるとしか思えない様な、筋と血管が浮いた二の腕はおばあちゃんの顔立ちとのミスマッチ加減が尋常ではなく、比喩ではなく本当に目がチカチカした。

 

『えっ?えっ?』と動揺してる間も無くマッサージオイルを塗られそれは突然はじまった。

 

 

 

コルギである。

 

 

 

いや、コルギ屋さんにきてコルギを頼んだのだから、コルギが始まるのは至極当然な流れである。

しかし文章では表しきれない程の“コルギ”としか形容出来ない、驚きに似た激痛が私に襲いかかってきたのだ。

 

刃牙の腕を持つババアに顔を蹂躙され、凄まじい痛みと、ぶつけようのない謎の怒りに私は涙が止まらなくなってしまった。

 

「泣かナイデー」

 

と言う刃牙ババアの腕は止まらない。

 

私は出産の経験はないが、もう顔から子供が生まれてくんじゃねーかと思う程痛い。クソ痛い。

 

『ヒッヒッフー』でお馴染みのラマーズ法で痛みを逃がそうとするも、刃牙ババアの手が私の頬を躊躇なく揉みしだき押し潰してくる為、息すらもままならい。

 

美しくなるためのコルギでどうしてこんな顔にならねばならないのか。

 

胸元の台に置かれた鏡にチラッと映る自分が不憫で更に泣けてくる。

痛みのあまり無意識に身体が揺れるのだが、それを刃牙ババアが二の腕でガッチリホールドしてくるので、私の上半身は、着信が来たガラケーのようにバイブレーションしていた。

 

黒田なな22歳、意地もプライドも捨て、ひたすらエグエグと泣く他なかった。

 

少しでも痛みを紛らわそうと目線を天井に移すと、妙に豪華なシャンデリアが飾ってあり、そこに吊るされたクリスタルには沢山の自分の顔が反射されていた。

 

美しいクリスタルの粒に写る沢山の凄まじい表情の私がキラキラと輝くその光景は、江戸川乱歩もびっくりの狂気の世界であった。

 

もう時間が経つのをひたすら待つことしか出来ない。アウシュビッツで人体実験をされたユダヤ人もこんな気持ちだったに違いない。

 

遠い異国の異人相手に勝手にシンパシーを感じ始め、人として感性がヤバくなってきたあたりでようやくコルギから解放された。

 

「おワタよー!ほら!スッキリ!」

 

そう言って手渡された鏡には

“生理時にバタ子がイラつきながら作ったアンパンマンの様な顔”

が写っていた。

 

無駄に敏感な肌は赤く腫れ、元々あったアゴのニキビは、刃牙ババアが万力の様な力で押し込んできた刺激のせいでチョコベビー大に膨らんでしまっていた。

 

 

 

かわいそうなブスの完成である。

 

 

 

 

 

そのあとの事はあまりよく覚えていない。

 

一万円払って激痛に耐えブスになったという事実に猛烈に腹が立ち、半泣きで待合室の猫を撫でた記憶しかない。

 

友人Mも似た様な目にあったらしく、二人で死んでいたのだが、友人Aは『痛きもちかった♡』と言いながら帰ってきた。

 

友人Aの顔が歪んでなかったのか、それともどマゾなのか、クソ程鈍感なのかは定かではないが、Aはご機嫌でルンルンであった。何よりである。

 

 

 

この経験から、人の忠告は聞くべきだという当たり前の事と、友人Mの「おもしろそーじゃん?」は全く面白くないという事を学んだのだった。

 

【出来事】一区切りついた話

クリスマス前ではあるが、一足早くこの一年を振り返って見ると私にとって2017年は激動の一年であった。

 

意気揚々と入社した私だったが、あんな事こんな事があってブッ倒れ、休職するだなんて、一年前の私は全く想像していなかった。

 

働かないという状況を羨まれたこともあるが、休職は人が思うよりも中々しんどいものである。

 

もちろん休んでいるのだから、働いているよりは楽なのは間違い無いが、センター試験一週間前の焦燥感が絶えず襲って来ると言うとわかりやすいだろうか?中々精神的にキツイものがあった。

 

とにかく目覚めてから眠りにつくまで。何百回、何千回も「どうしてこんなことに」と考えても仕方のない事に思いを馳せ続けていた。

 

私が悪い、誰が悪い。何がダメで、どうするべきだったのか。

 

最近になってようやく、休職という結果にこうした明確な解答は無いことを理解しはじめたが、完全に気持ちの整理がついた訳ではない。悶える夜は未だある。

 

 

 

 

主治医の勧めで時々外へ出て友人と会うこともあったが、それ以外の時間はひたすら家で身体を休めるか、家事をするか。それくらいしかする事が無い。

 

おかげで油汚れに異様に詳しくなってしまった。

 

とにかく体力が失われていたため、長時間外で遊ぶという事が出来なくなっていたし、薬の影響か文章を集中して読む事も苦手になっていた。

 

11月半ばあたりからは大分精神力を取り戻し、アレコレ行動を起こしてはみたが、いかんせん判断力が戻らない状況だったためロクな結果にはならなかった。

 

 

 

我ながら踏んだり蹴ったりの一年である。

 

 

 

しかし、私がこうして「この一年はクソ大変だったなぁ」と過去を振り返られるのは友達のおかげである。

 

本当に、友達には感謝してもしきれない。

 

休職中という、どう扱ったらいいのか分かりづらい私という存在に、色々な友達がそれぞれの形で寄り添ってくれた。

 

気分転換にと遊びに誘ってくれた友達や海まで車で連れて行ってくれた友達。最寄り駅まで会いに来てくれた友達、LINEや電話をくれた友達、そっと見守ってくれた友達。

 

どれだけ救われたかわからない。

 

「そんな会社今すぐやめろ!!!」と言ってくれた友達「今辞めるのはもったいないからとりあえず休め!!!」と言ってくれた友達、今はどちらにも感謝している。

 

家族への感謝も尽きないが、友達という存在なくしてはここまでこれなかった。おそらく荒川にでも身投げしていたと思う(マジ)。

 

 

 

 

休職中も私はちょいちょいSNSを弄っていた。「休職中のくせに遊んでんじゃねーよ」と思わせてしまったかもしれない。その事についてはずっと心に引っかかっていた。本当に申し訳ない。

 

ただ、友達と会う事は私にとって大切なリハビリであり、誤解を恐れず言うのであれば「友達と遊べない状態なら仕事なんて到底出来ないじゃろ?」という認識だった。

 

またいつだったか、今すぐ会えない距離にいる友人が、私が心配だからと無理矢理東京に来ようとした事があった。

そんな子達に、私は今日もそこそこ生きてますよと発信したかったのだ(実際死亡説もでた)。

 

それでもイラッとした人はいるだろう。ごめんなさい。

 

 

 

 

突然こんな事を書き出したのは、明日会社での面談があるからだ。

詳しい内容は伏せるが、復職に際した面談である。

 

 

 

ようやく一区切りついた。

 

 

 

まだ何がどうなるかは全くわからない。休職の延長を勧められるかもしれないし、滅茶苦茶遠いところに飛ばされるかもしれない。

 

それでも、ここまで漕ぎ着けられた事に安堵をしている。

 

一時は起き上がる事さえ出来ず、泣きながら寝返りを打つだけで一日が終わる日もあった。

 

低体重(見た目にあまり現れないのが腹立つ)や服薬等の問題はあるものの、突然泣き出したり倒れたりなんて事は無い。へらへらした私はどうにか無事に帰ってくる事が出来た。

 

 

 

 

 

必要とされない地獄にいた私に、友達というかけがえのない役割を与えてくれた全ての友達に特別な感謝を込めて、明日は久々に出社したいと思う。

メンヘラよ「 NANA」に還れ

寂しさに負けたメンヘラが男に思わせぶりなLINEを送って心の寒さをやり過ごしてるであろう今日この頃。みんなは元気だろうか?


私はコカコーラゼロ依存症と戦っているが、そこそこ元気だ。




今回お伝えしたいのは

「メンヘラはNANAを読め」

ということである。




就活の時に「結論から述べよ」と徹底的に洗脳されたせいでつい出オチしてしまった。

ここでこの文章を読むのを止めても全く問題ないのだが、少し説明させてほしい。


昨今「ファッションメンヘラ」や「病み垢」など、心の隙間を示す言葉のバリエーションがニトリの家具ばりに増えてきているがみんなはどうだろうか。メンタル、ちゃんとヘルシーだろうか?


ここで一つ、メンヘラについて言いたいことがある。




【メンヘラだって良いじゃない人間だもの】




というのも、メンヘラというのは危惧すべき害獣として扱われがちだが、松岡修造と血縁関係にない限り誰しもメンヘラになる可能性はあるのだ。


リスカしないとメンヘラになれないなんて事はない。メンヘラはいつだって門戸を広く開いて待っていてくれている。


極端に言えば、西野カナの歌詞に一度でも共感したことがあればメンヘラの才能があるし、誤解を恐れず言うのであれば、aikoの「キラキラ」がプレイリストのお気に入り欄にあるならメンヘラ予備軍である。


繰り返しメンヘラと書き過ぎたせいで軽くゲシュタルト崩壊しつつあるので、メンヘラの定義はこれくらいにしておくが、以上の文を読んで身に覚えがあった人は少なくないのではないだろうか。

 

私はメンヘラを悪者にしたくない。

なぜなら、愛を求めるがあまり苦しいと感じる、極めて人間らしい感情こそがメンヘラの根源であるからだ。


文字を大きくしてまで言うことではないかもしれないが、とにかくメンヘラという生き物は全部が全部そんな恐ろしい生き物という訳ではない(時々シャレにならないメンヘラもいるが)。


そんなこんなで、ライトなメンヘラから左手ザクザクのガチメンヘラまで、幅広いメンヘラに推したいのが伝説の少女漫画「NANA」である。


「よく知らんけど名前は聞いた事ある」という人は多いだろう。

私の周りもそういった友人だらけなのでよくよくわかる。


何を持ってそんな全力でメンヘラに「NANA」を勧めるのかというとNANA」を読む、というショック療法を行うことで、メンがヘラる原因になっていた悩みがちっぽけに思えるという絶大な効果があるからである。


NANA」のストーリーはあらすじで示せるほど簡単ではないので「読んでみて下さい」としか言えないのが非常に歯痒いが、代わりに「NANA」の名シーンをザクザクと紹介していきたい。




まずは「NANA」ーりぼんコミックス1巻、71pのこのシーンを見てほしい。

f:id:nanami12392985:20171206190626p:plain

耳も目も心も非常に痛いシーンである。これは

「家族の様に育ってきた可愛い愛犬に腰を振られた気分」

という女性の感覚と

「散々振り回された挙句、トモダチという名の便利屋にされた」

という男性の感覚の差が如実に表れているシーンであり、悲しいかな、現実世界でもあるあるな話である。



次は「NANA」ーりぼんコミックス3巻、78pのこのシーンを見てほしい。

f:id:nanami12392985:20171206190715p:plain

前後のストーリーや詳しいキャラクター説明がなくても、女なら叫ばずにはいられないシーンである。


こんな女が同じクラス、同じ職場にいるだけで自分の恋路はメタメタにされてしまうと、第六感アラームが鳴り響いて止まないこと間違いなしである。



次は「NANA」ーりぼんコミックス13巻、p17のシーン。

f:id:nanami12392985:20171206190808p:plain

語るだけ野暮である。この世の真理が1コマ目に詰め込まれている。



そして「NANA」ーりぼんコミックス14巻、p13 ファン同士のやりとりである。

f:id:nanami12392985:20171206190921p:plain

愛というのは同性同士でも牙を剥き、ランク付けされることを生々しく表したシーンである。他人からしたらたかがファンかも知れない。しかし誰かを愛し崇めるファン当事者としては、一人ひとりが戦場で戦う騎士なのである。



最後に「NANA」16巻、p37のこのシーンを紹介する。

f:id:nanami12392985:20171206190949p:plain

このシーンの何が凄いかというと、冷淡に突き放している様に見えて、よくよく読むと「会いたくなるだけ」と好意は否定していないのだ。

「面倒な女だ」とか「鬱陶しい」だとかいくらでも言い切る事が出来るのに、「会いたくなるだけ」と言うだなんて、怒りながらも愛があるなによりの証拠ではないか。あぁ素晴らしい。




とにかくこの様にメンヘラ、いや、全人類の心と記憶を揺さぶるシーンが「NANA」には散りばめられているのだ。


「辛いのは私だけじゃない!」

と思えるかもしれないし

「こんな世界でどっぷり恋愛をしたい!」

と憧れるかもしれない。


私は「うおおぉ」と一気読みをして心を奪われた後、「NANA」のありとあらゆるシーンがボディーブローの如くズンと後から効いてきた。


刺激が強過ぎてメンヘラが悪化するかもしれないという副作用には注意が必要だが、それでも私はメンタルがずくずくと傷みはじめたそこのあなたに「NANA」を読むことをお勧めしたい。






クソどうでもいいが、このタイトルコールは「やくしまるえつこ」の『少年よ 我に帰れ』という曲をを文字ったものである。

NANA」や「メンヘラ」とは1ミリも関係無いが、いい曲なのでここでこっそりオススメしておく。


【思った事】眠れない夜には遺書を書く

 

タイトルはバリクソ重いが、内容はわたあめくらい軽いので安心してほしい。

 

現に今もフェイスシェイプアップに効果があるというベロ回し体操で、ぐるぐると舌を回し、大変な変顔をしながらこの文章を書いているくらいなのでどうか構えないで欲しい。

   

 

 

 

「眠れない夜」これは誰しも経験あると思うのだが、その時あなたは何をするだろうか?

 

蜂蜜入りのホットミルクを飲む?気に入ってる音楽をかける?アロマを焚く?

いっそお散歩に出て見るのもいいかもしれない。

 

小難しい本やスマホでネットのまとめを読むという行為は、結局眠れないのだがやってしまいがちな事である。

 

 

 

何をするかは、眠れない理由によって変わってくるかもしれない。

 

お昼寝のし過ぎで眠れない人、昼夜逆転してて眠れない人、疲れ過ぎて眠れない人、仕事での理不尽な体験がリフレインして眠れない人......色々である。

 

何をしても眠れない重度の不眠の場合は、心身が疲れきっているのが原因だろう。

 

なんにせよ、眠れない夜は言葉にし難い苦痛を伴う。なぜなら眠れずとも必ず夜は明けてしまうからだ。

 

私は小学生の頃くらいから「明けない夜はない」という事実が恐ろしく、ずっとこのまま夜だったら眠れなくても辛くないのにと何度も夜明けを呪ってきた。

 

何もせず目を瞑って布団に横になって心身を休める。

普通ならここで眠れるのだが、眠れないスイッチが一度入ると

 

...腕がちょっと痒い気がする......身体が暑い.......足は寒い......そういえばアレ明日やんなきゃ.......アレはどこいったんだっけ......

 

と頭の中で心配事が飛び回りなんだがムズムズしてしまい眠れない。

 

 

そんな、寝返りを打てどもうてども眠れない時、私は遺書を書く。

 

......

  

イヤイヤいやいやそんな引かないで、待ってまってそんな重いものと捉えないで。かるーく「◯◯の人生振り返り日記!」くらいのノリだから!!!

 

しかも、書くと言っても大体は精々メモに残す程度である。頭に浮かべて終わりの日もザラにある。

 

 

ただ、ひたすらこれまでの事を滔々と振り返る。

生まれてから今までの壮大なスケールでもいいし、入学から卒業、何歳から何歳まで、など、どういった区切りでも構わないから振り返り思い出していく。

 

自分がどんな人間で、どんな事をしてきたか。

 

素晴らしい、キラキラとした宝石のような薄荷色の思い出は、沢山掘り出して1つ1つ磨き、窓辺に飾るように文字にしていけばいい。

思い出したくもないような痛い思い出は、その思い出ぴったりサイズの専用箱に優しくしまってあげるといい。そしてその箱に小さな覗き穴を開け、そこから少しずつ思い出を見返していけばいい。

 

 

自分の過去をまとめられてきたら、多分少し興奮すると思う。

 

あんなことがあった、こんな奴がいた。

 

でも慌てないで!そこのSNSエゴサハンター!

そこで思い出の人をFacebookなどで検索をかけ始めると、これまでの眠りの努力は一気に台無しになる。

 

冷静に、人生を振り返った上で、誰に何をどんな言葉で伝いたいかをまとめていく。

 

 

 

 

明日の朝、自分が死んでいる設定で。

 

 

 

親、兄弟姉妹、親友宛は、書いてるうちに、自然と涙が溢れてくるかもしれない。

普段は言えない感謝の言葉や、あの日謝れなかった懺悔など、するすると出てくるのではないだろうか。

 

身近な人に宛てるのがなんだか嫌だというのなら、近所の犬や育ててる途中のサボテン、大事にしてきたぬいぐるみに書けばいい。きっと少し笑えて少し切なくなるだろう。

 

 

 

 

眠りは一種の死だとも考えられる。

明日目覚めた自分が、今日の自分とイコールである保証などどこにもない。

 

だから人は日記を書き、日記の集大成として遺書を書く。

 

眠れない今を仮死状態と仮定して書く遺書は、きっと眠れない時間の有効活用にはとても適しているはず。

 

むしろ眠れない時間にしか出来ない事だ。

昼間は明る過ぎて思い出は光飛びしてしまう。

夜の闇がスクリーンを覆う帳になるからこそ、記憶を鮮明に映し出す事が出来るのだ。

 

 

 

さあ遺書を書く心の準備は出来ただろうか?

必要なものは、眠れない時間だけである。

 

 

 

この文章を読んでいたら眠くなってきた?

それはよかった。遺書を書かずに眠れるのなら、それにこしたことはない。

 

 

 

 

 

ぐっすり、おやすみなさい。